お久しぶりです、祈(いのり/inori)です。
1週間…と言いつつ2週間のお休みをいただいてしまい申し訳ありませんでした。
雪山に行ったり(前回の記事↓参照)、社畜生活を極めたりしていました。
さて、今回は村上春樹『1973年のピンボール』について書いていきます。割とさらっとした考察になるかな、と。
『風の歌を聴け』に続く2つ目の作品ですね!
(以下、『1973年のピンボール』のページ数に関するすべての記載は、講談社文庫単行本に拠ります。)
[目次]
◆これはピンボールについての小説である
◆僕=ボール/直子=ピンボールマシン?
◆残る謎:3つ目のフリッパー
◆まとめ
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◆これはピンボールについての小説である
この小説にはピンボール的要素がたくさんあるように思われます。
有名な読み方ですが、交互に話す双子208と209は、ピンボールにおけるフリッパー(落ちてくるボールを打ち返すもののこと)を表しているのではないか…という説は面白いですよね。わたしもこの読み方に賛成です。
*ピンボールの仕組みについてはわたしも詳しくありません…今回の記事を書くにあたり、これらのサイトを参考にさせていただきました。
[概要版]ピンボール各部名称及びパーツ等の情報 (随時更新) | ピンボール 業務用ゲーム 両替機 販売 買取 修理 部品 リース レンタル
他にも、ベトナム戦争や第二次大戦の話は、双子同様に左右一対・行ったり来たりというフリッパー的要素を彷彿とさせますし、翻訳についての描写(左手に硬貨を持つ…)はピンボールをプレイするときの描写とも読めそうです。
さらに、これはわたしが参加させていただいた読書会で他の方が指摘されていたことなのですが、小説冒頭で出てくる直子の街自体がピンボール的であるという読み方が可能なようです。
井戸に落ちる=コインを投入する、犬がプラットホームを歩く=ボールに対する障害物である、などという読み方です。大変しっくりきますよね。
さて、ここまで符合すると、この作品の最初のほうに書かれている1文、
(p.28 l.4)これはピンボールについての小説である。
という文章の受け止め方が変わってくるように思えます。
つまり、この小説は”本当に”ピンボールについて書かれている。言い換えれば、双子をはじめとする登場人物たちや、小説の構造もピンボールに照らして考える必要があるのではないかということです。
ピンボールというタイトルパッケージの中に、ピンボール的構造で書かれた小説があり、さらにその中でも物語の一部として、ピンボールの話が書かれている…
このようなことを厨二病的にかっこよく言いたかったので、本記事のタイトルは<フラクタル構造としての「ピンボール」>としてみました。フラクタル構造というのは、ものすごく簡単に言うと同じ図形が繰り返し現れる図形・構造のこと。←間違っていたらこっそり教えてね!
少し前に流行った「アナと雪の女王」の英語版の歌詞に frozen fractals all around とあるよ…という豆知識もどうぞ。英語の教材で出てきたのです。懐かしい。
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◆僕=ボール/直子=ピンボールマシン?
では、この小説の構造をピンボール的に捉えるとどうなるか。
登場人物に関して、以下のように考えるのがおさまりがいいとわたしは思います。
◯双子=フリッパー ←これはほぼ確定
◯僕=ボール
◯直子=ピンボールマシン(スペースシップ)
双子については前述の通りなので、なぜ僕=ボールなのかというところから説明を加えます。
理由は大きく2つ。①ロストボールを探す描写があるから②バンカー(砂場)を大切にしているからです。
①について、僕が双子と一緒にゴルフのロストボールを探す場面がありますね。これはロストした(失われた)自分自身を探していると読むことはできないでしょうか。
他にも、そのままでは落ちて行ってしまうボールである僕を、フリッパーである双子が打ち返して、現実の世界にとどめているのではないかという読みも、物語的に成立しそうです。
また②について、実はピンボールにもゴルフで言うバンカーのようなものがあるのだそうです。前述のサイトによると「ソーサー」「スクープ」「ホール」などと言うそうで、ここはゴルフと異なり、ボールが入ることでイベントが始まったり何かを獲得できたりする、基本的にプラスな場所なのだとか。
ボールである自分にとって好ましい場所だから、バンカー(砂場)を僕は執拗に意識し、神聖な場所としてクリーンに保ったのではないでしょうか。
次に直子=ピンボールマシン説。こちらのほうがわかりやすいかもしれませんね。
理由はズバリ、物語のクライマックスシーンにおける、僕とピンボールマシンとの対話からです。ここで対話するピンボールマシンは明らかに女性的な性格を付与されています。15章で「あなたのせいじゃない」「終ったのよ、何もかも」と語りかけてくる様からも、このポジションは直子でしょう。
そしてここからは補足です。
印象的なアイテムに配電盤が登場しますが、ピンボールも電気を使うため配電盤があると考えられます。
これを交換した後、不要となった古い配電盤に主人公は執着し、「死なせたくない」と言い、お葬式までするわけですが、この結果僕は双子とのコミュニケーションがうまくいかなくなったり、仕事に身が入らなくなったりしています。
一見不思議なこのエピソードも、配電盤の交換によって直子というマシンが(あるいは”この小説”というピンボールマシン自体が)機能不全になったという見方ができると思います。
そして双子はフリッパー、つまりマシンの一部だから、当然配電盤についてよく知っているということですね。
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◆残る謎:3つ目のフリッパー
最後に、現時点でわたしなりの回答を持てていない謎をメモ的に書いておきます。
それは、3つ目のフリッパーは誰か?という問題です。
というのも、作中に描かれる「スペースシップ」は、フリッパーが3つあるとわざわざ明言されているのです。最初は、作者が所有していたマシンが3フリッパーだったからか?くらいに思いましたが、作者のエッセイ『村上朝日堂 はいほー!』収録の「スペースシップ号の光と影」によると、作者がピンボールマシンを入手したのは『1973年のピンボール』という小説を書いた後のようですし、そもそも実際のマシンはフリッパーが2枚しかないとのこと。つまり、作中のマシンは意図的にフリッパーが3枚に設定されていると考えるのが自然です。ならば、対応する人物がいるはず…
消去法的に考えると「鼠」ですが、これだ!という描写が見つけられず…というところです。
わたしも読み直してみますが、こうじゃないかな?という説をお持ちのかた、ご存知のかた、ぜひご一報くださいませ。コメントやDM解放しております!
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◆まとめ
本記事の内容まとめです。
●『1973年のピンボール』は、登場人物や小説の構造もピンボールを意識して設定されていると読める。
●上記の読み方で考えると、双子=フリッパー/僕=ボール/直子=ピンボールマシンと考えることができる。
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以上です!
2月中はちょっと不定期更新になるかもですが、なるべく毎週更新目指してがんばります。いったん2/19の更新をお待ちくださいませ。それではまた!
>今日の蛇足
東京(新宿区)高田馬場に、ピンボールがプレイできる場所があるのだとか。
今度行くことがあったらレビューする…かもです。いつになるやら(笑)
▼前回の記事です。
▼過去の人気記事です。
▼番外編です。