祈(いのり/inori)の手控え

本の考察(もとい妄言)を気ままに書く手控えです。 村上春樹作品多めの予定。

【中国行きのスロウ・ボート】考察:1959、60年は〇〇の年!

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

「中国」と言われてわたしが連想するのは…「チャイナドレス」か「チャイボーグメイク」ですかね。

どうもわたしは中国の「強い美しさ」が好きみたいです。

▲ぜんぜん強くなさそう。
https://stock.adobe.com/jp/search?k=チャイナドレス&search_type=usertyped&asset_id=537710156

さて、今回じつは動物ネタでもう一本…と思っていたのですが、

オーダー(?)をいただきまして、急遽別のネタで書こうと思います。

それが村上春樹中国行きのスロウ・ボート

 

【この記事で言いたいこと】

中国行きのスロウ・ボート」は、当時の日本と中国の関係を表しているのではないか

 

取り急ぎ2ヴァージョンを読み比べてみましたので、ご興味のあるかたは続きをご覧ください!

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◆わたしの立場

中国行きのスロウ・ボート」が日中関係を表しているのではないか…というのは、おそらくそれなりに知られた解釈なのではと思います。たしか論文もあったはず(この記事では引用しないため、改めて名前は調べませんでした。申し訳ございません)

 

わたしもこの説に全面同意です。主な理由は以下。

1)ディスコミュニケーションが強調されているから

→例:1人目の中国人教師の呼びかけに対して、模試を受けにきた日本人の子供たちはひたすら「沈黙」している/2人目の中国人の女の子と、物理的にも心理的にもすれ違っている、など

2)日付や記憶など、歴史認識に関する述懐が多いから

→冒頭に顕著。始まりからして「考古学的疑問」と言っている(『中国行きのスロウ・ボート』p.9 l.2)。

 

そして今回の記事では①ヴァージョンの違い②年代に注目して、上記の説を補強していこうと思います。

◆①ヴァージョンの違い…中公版と新潮版

さっそく①ヴァージョンの違いのお話から。

新潮社から出ている短編集『象の消滅』によれば、中国行きのスロウ・ボート」はヴァージョンが3つあるそうです(p.23 l.19-20)。

そして、現在わたしの手元には中公文庫版の『中国行きのスロウ・ボート』(以下、”中公版”)と、前述の『象の消滅』(以下、”新潮版”)の2つのヴァージョンがありましたので、この2つを読み比べてみました。

※3つ目は追々探します!…知っているかたはコメントにてご一報くださいませ。

 

中公版と新潮版は、筋は同じだが細かな異同(=ちがい)がけっこう多いという印象でした。

その中で、わたしが気になったのは以下2点。

A)中公版にのみ、”中国人小学校の机に落書きをしたか覚えていない女の子”のエピソードが出てくる

B)中公版にのみ、「自己憐憫」というワードが2度登場する

 

1つずつ見ていきましょう。

 

まず、A)中公版にのみ、”中国人小学校の机に落書きをしたか覚えていない女の子”のエピソードが出てくる

ですが、これは加害者側がやったことを覚えていないという意味なのではと思います。

その前の中国人教師の語りで、落書きは明確に”相手を悲しい気持ちにさせる行為”として描かれていますから、それを覚えていないということは、加害者側の無責任さと言えるのではないでしょうか。

そして誤解を恐れず日中関係に照らすのならば、これは南京事件をはじめとする日中戦争歴史認識に関するメタファーと言えそうです。

※本ブログにはいかなる政治的意図もございませんので、これ以上の言及は控えます。詳しく知りたいかたは調べてみてくれよな!

(中公版:p.24 l.6-8)おそらく彼女の言ったことの方がまともなのだろう。何年も前にどこかの机の上に落書きしたかどうかなんて、誰も覚えてなんかいない。昔のことだし、それにどちらでもいいことなのだ。

 

そして、B)中公版にのみ、「自己憐憫」というワードが2度登場する

ですが、「自己憐憫」とは「自分で自分をかわいそうだと思うこと」です。

つまりこれは、日本と中国のお互いが、自分のことを被害者だ・かわいそうだと思っているということを意味していると思われます。日中それぞれの自国認識に関するメタファーですね。

▲落書きって英語で「graffiti」なんですね。「ポルノグラフィティ」ってそういうこと…?https://stock.adobe.com/jp/search?filters%5Bcontent_type%3Aphoto%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aillustration%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Azip_vector%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Avideo%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Atemplate%5D=1&filters%5Bcontent_type%3A3d%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aimage%5D=1&k=graffiti&order=relevance&safe_search=1&limit=100&search_page=2&search_type=pagination&acp=&aco=graffiti&get_facets=0

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◆②年代…3人の中国人と会ったのは何年か?

もう一つのトピック、②年代の話に移ります。

1人目・2人目・3人目の中国人と出会ったタイミングは、細かく特定することが可能です。

 

1人目は本文中にある通り、1959年または1960年(中公版:p.9 l.5)です。

この頃の日中関係はというと、1958年の長崎国旗事件により、一時的に国交が断絶しています(1960年に友好商社に限り貿易が再開)。

だから、1人目の中国人教師の呼びかけに日本人の子供たちは「沈黙」しているわけですね。声が断絶している。

 

2人目は「僕」が十九歳の頃(中公版:p.26 l.7)です。

以降、本作の主人公「僕」は作者と生い立ちが似ている=「僕」の年齢を作者:村上春樹と同じと仮定します。

すると作者は1949年生まれなので、「僕」が19歳のときは、

1949+19=1968年

となります。

(※ちなみにこの計算で行くと、1959年=作者10歳のときとなるため、小学校4、5年生あたりとなり、1人目と出会った時とも計算が合います。)

この頃の日中関係はというと、1966年の文化大革命を皮切りに険悪なものとなっています。

仲良くなれるか…と思ったものの、小さな誤謬をきっかけに分かり合えず、同じ方向の電車に乗り込むことができなかった場面は印象的です。

 

最後の3人目は「僕」が二十八歳(中公版:p.39 l.10)のとき。

1949+28=1977年

となります。

この頃の日中関係はというと、日中平和友好条約が結ばれ、1978年には中国の指導者が昭和天皇と会見するにいたっています。

中公版にしかない「十年もたてば実にいろんなことが変るものさ」(中公版:p.43 l.9)というセリフに、いろいろな思いが読み取れますね。

記憶が薄れ、またいくぶんぎこちなくはあるけれど、少なくとも言葉は交わせているし、傷つけあってもいないといったところでしょうか。

▲(1977年時点では)ここまではいっていないかな
https://pixabay.com/ja/vectors/腕-友達-友情-ジェスチャー-2025687/

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このように見ていくと、中公版テキストの方が、日中関係というテーマを思い浮かべやすくなっている気がしますね。

新潮版の方が3ヴァージョン目だそうなので、露骨な描写を避けたのか、より新しくなった日中関係を考慮したのか…

 

今回も新しい発見がたくさんでした!

それではまた次回(12/4)をお待ちください。

 

今日の蛇足)麻婆豆腐を勘で作ったことがありますが、難しかったです。花椒とか、スパイス系をちゃんと使わないとダメですね。

 

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