ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。
教会でパイプオルガンとか弾いてみたいですよね。わたし音符読めませんが…
さて、今回扱うのは、村上春樹「クリーム」。
(2022年12月4日現在)最新の短編集『一人称単数』に収録されている短編です。主人公が山の上のピアノリサイタルに招待されるお話ですね。
【この記事で言いたいこと】
「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」とは、”人の意識のエリア”を指すのではないか
なかなか手応えのある新作に挑戦してみましたので、最後までご覧いただけたら嬉しいです!
(以下、「クリーム」のページ数に関するすべての記載は、文藝春秋単行本『一人称単数』に拠ります。)
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◆”1つの円”とは言っていないのでは…?
本作最大の謎が、山の上の四阿(あずまや)で老人に問いかけられる「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」でしょう。そんなものあるのか…?と思いますよね。
このような円は”学校では教えてくれない”と言っているため、明確な解答を求めること・それも学問的に求めること自体がナンセンスだと思うのですが(コウモリ傘で叩かれそう)、ここではあえてそれに挑戦してみようと思います。
というのも、老人の問いかけを読んだときにわたしはこう思ったのです。
「1つの円とは言っていないな…」と。
つまり、こうすればいいのではと考えました▼
①の青い内側の円を無数に増やしていけば、「中心がいくつもあって」という条件はクリアできます。
そして、①の青い円すべてを包括する、またはすべてに外接する②の赤い外側の円を考えます。すると、①の青い円が無限に増えた場合、それらすべてを包括する②の赤い円は外周を定義できなくなります。これは「外周を持たない」と言えるのではないでしょうか。
無限に増え続けるお菓子をすっぽり収納できる袋はない、といったイメージでしょうか。
これが唯一の正解だ!と言いたいわけではありません。飽くまで1つの読み方として、上記のような解釈はどうでしょうか…?
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◆この円は何を表しているか
上記だけでは単なるトンチで終わってしまいますので、もう少し掘り下げます。
この円の話が何を表しているのか、という点です。
この点を掘り下げるうえでポイントになるのが、物語の終盤に出てくる次の文章です。
(p.47 l.15-p.48 l.3)たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないかーそれはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。
この文章で列挙されている事柄は、その人の精神の核・心の拠り所のようなものと言えます。いわば円の中心です。
つまり、先ほどの図1は、人間一人一人の心の拠り所を中心として展開する、心や意識のエリアを表しているのではないでしょうか。
図にすると以下の通り▼
この円全体で一個人と見るか(つまり、①の青い円が1人の中にいくつもあると見るか)、または①の青い円1個で一個人と見るか(つまり、①の青い円の数だけ人がいると見るか)は判断が難しいところですね。というよりどちらも言えるのではないかとわたしは思います。
いずれにせよ、人の心には上記のようなエリアが存在し、それが「説明もつかないし筋も通らない、しかし心を深く激しく乱される出来事」をやり過ごす上で大事な核となるのだということを、老人は伝えたかったのではないでしょうか。
オマケのようになりますが、本作には神話的モチーフが多いですよね。
”神”戸の山の上、ぼくだけに向けられたようなキリスト教の宣教メッセージ、「神話的とも言えそうなその印象深い光景」(p.44 l.10-11)などなど…
山の上まで花束を持って音楽を聞きに行く、という行為も、どことなく神託を受けに行く様を彷彿とさせます。
そのように考えると、「坂道を上ってくるときは、そんな公園があることに気づかず通り過ぎてしまった」(p.34 l.7-8)公園自体も、そこに現れた老人も、こちら側の世界のものではないのかもしれませんね。
「しょうもないつまらん」ことだらけの世界を生きる術を主人公に授けるために、現れてくれたのでしょうか?
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それでは本日はこの辺りで。
次回(12/11)の記事でまたお会いできればと思います!
今日の蛇足)クリーム系のお菓子はちょっと苦手です…「クリームの中のクリーム」が出てきたら、誰か食べてください。
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