祈(いのり/inori)の手控え

本の考察(もとい妄言)を気ままに書く手控えです。 村上春樹作品多めの予定。

※ネタバレ注意!※最速考察②【街とその不確かな壁】移り変わらないものはない

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

突然ですが、みなさんは夏休みの宿題を先にやる派ですか?後にやる派ですか?

わたしは初日と最終日にやる派です。

初日にガーッと8割くらい片付けて、気分が乗らないものはずっと放置するんですね。

で、文句を言いながら残りの2割を最終日に泣く泣くやる、と。

 

何が言いたいかと言うと、わたしはルーティンが大嫌いな超絶気分屋だということです。

というわけで、今は気分が乗っているので記事を2本連続でUPします。

最新刊『街とその不確かな壁』について、2本目はわたしの個人的な考察です。

 

※以下、注意事項※

1.最新作のネタバレを含みます。未読のかたはお気をつけください。

2.今回はスピード重視で記事を上げています。今後加筆・修正等が行われる可能性が高いです。

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◆キーワードは「平衡」

いきなりですが、今作を読んだ時にわたしが最初に思い浮かべたワードは「平衡」でした。つまり、釣り合いが取れている状態ということです。

そして、主に物理学や化学の分野において、この釣り合いが取れているという状態はさらに2種類に分けられます。①静的平衡動的平衡という2つです。

①静的平衡は文字通り止まっているものに関する平衡で、テーブルの上に置いたペンのように、全く動いていない状態を指します。

一方の動的平衡我々人間をイメージするとわかりやすいと思います。

我々人間は食事や呼吸によって外部からエネルギーを取り入れ、それと同じだけ排出をしています。その収支が合っているから、見かけ上は変化していないわけですね。

このように、お財布に入った額と同じ額だけ出ていっている(から見かけの残高は同じ)状態を、動的平衡と呼びます。

この2種類の平衡が、そのまま壁の中と外の世界に適用できるのではと考えられるのです。

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壁の外=動的平衡壁の中=静的平衡(?)

まず、壁の外の世界ですが、これは我々が生きている世界と同じルールで動いていると考えられますので、間違いなく動的平衡が存在する世界です。

一方で、壁の中の世界では人が死ぬことはなく、時間も(実質的に)存在していません。主人公以外は飲み食いをしている描写もありません。これらのことから、一見すると壁の中の世界は静的平衡の世界なのか…と考えられます。

ところが、壁の中の世界には、壁の内と外を行き来し、生と死を繰り返す生き物が存在します。そう、単角獣です。

単角獣の出入りや生と死のサイクルによって、この街は保たれているわけです。

主人公の影が「この街は完全じゃない」と看破したように、この街の静的平衡による永劫性は見せかけで、実際はこの街にも動的平衡は存在していると考えるべきでしょう。

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◆移り変わらないものはないーここから何が言えるのか

上記をざっくりまとめると、どのような世界においても動的平衡は存在し、移り変わらないものはない…ということが言えるのではないでしょうか。

そして、ここからどんなメッセージを読み取るかは個人の判断に委ねられているように思います。読み解き方が多すぎるんですよね…

ので、「これが正解」というものはないと思うのですが、個人的にこうかな?と読み取ったメッセージを2つ紹介します。

 

1つ目は、「分断」に対する村上春樹なりの回答なのではないかということ。

この作品は2020年のはじめから着手したことがあとがきに書かれていますが、この頃はコロナウイルスによる個人の分断や政治・経済の分断を中心に、「分断」という言葉が一種のホットワードになっていました。

ですが、これまで見てきたように生き物や世界は二元論的にパキッと分けることは難しいです。さっきまで自分の一部だったものは、次の瞬間には排出されて自分の外部となり、それは同時に世界の一部になるということを意味するので…。裏を返せば、さっきまで他人だと思っていたものの一部は、次の瞬間には自分の一部になっているわけです。

自分と他人、自分と世界をパキッと分けられないからこそ、「分断」による排斥は止めませんかというメッセージだと読み取ることができると思います。

まさに「不確かな壁」というタイトルにぴったりだと思いますし、あとがきの「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」という記述にも一致するかなと。

 

2つ目は(こちらは自分でもあまりしっくりいっていないのですが)、1つの愛の形を示しているのではないかということ。

突然の自分語りになりますが、わたしは申し訳ないことにほとんどアニメを見ません。ですが、学生時代に授業で見せてもらって衝撃を受けたアニメがあります。

それが魔法少女まどか☆マギカです。

▲U-NEXTやAmazonプライムで見られるようです(有料)。

めちゃめちゃ面白いので詳細は見てください…と言いつつ、話の例として適当なので壮大なネタバレをするのですが(10年以上前のアニメだからいいよね)、登場人物の1人「ほむら」は、何度も同じ期間をやり直して友人の「まどか」を助けようとします。ただ、「ほむら」が救いたいのは孤独だった自分に声をかけてくれた世界線の「まどか」であって、やり直した別の世界線の「まどか」はまったく接点のない人物だったりするんですよね。でも彼女の中では途中から「まどか」という存在を救うことが目的になっていって、それがある意味では無意味で滑稽だという風に描かれている(気がします)。

 

でも、これってある意味1つの愛の形だとも思えるのです。

人は見かけは同じでも、精神的・肉体的な構成要素は変わっていってしまうかもしれない。けれど、総体としての、村上春樹の言葉を借りれば「絶対的な観念」としてのその人を愛するというのは、1つの愛の形なのでは…と愚考します。この小説は「1000%の恋愛小説」だったんですね。

先ほどの動的平衡の話によれば、1年もすれば(見かけは同じでも)分子レベルでの中身は全く別人になっているそうですよ。せめて見かけだけは変わらずありたいものですね。

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ということで、「まどマギ」しゃべりたかっただけでは…?とバレる前に〆ようと思います。お疲れ様でした!

 

>今日の蛇足

動的平衡の考え方に寄与した科学者:シェーンハイマーは、「生命が絶え間なく流れている」と言ったそうです。流れの比喩やエントロピーの話を視野に入れると、本作で主人公が川を遡っていくことにも納得がいきますよね。

 

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