【踊る小人】考察:文壇からの決別の物語だった?
ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。
印象深い童話は「人魚姫」。生まれて初めて聞いたかもしれないバッドエンドの物語で、その夜眠れなくなったことを覚えています。あの頃は心が綺麗だったんですね…今やバッドエンドを進んで求めるモンスターに成り果ててしまいました。
さて、今回はそんな童話っぽさが色濃く出ている村上春樹「踊る小人」。
『蛍・納屋を焼く・その他の短編』『象の消滅』などに掲載されています。
この物語の構造について、現時点で気になるところを書いてみましたので、よかったら続きをご覧ください。
(以下、「踊る小人」のページ数に関するすべての記載は、新潮文庫『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に拠ります。)
[目次]
◆物語フレーム ーオルフェウス型神話(見るなの禁)ー
◆”お約束”を破壊している
◆象工場は出版業界?
◆まとめ
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◆物語フレーム ーオルフェウス型神話(見るなの禁)ー
早速ですが、この作品は非常に寓話性がありますよね。『グリム童話』とかに載っていそうな感じ。
そのように感じる理由はいくつかあると思うのですが、大きな理由の1つは、この物語がオルフェウス型神話(見るなの禁)と呼ばれる物語フレームを使っているからだと思われます。
オルフェウス型神話(見るなの禁)とは何か。一応解説しておきます。
これは世界各国の神話などにみられる物語フレーム、言い換えれば”お約束”の一種で、何かをしてはいけないよと言われたものの、そのきまりを破ってしまったがために悲劇的な結果が訪れる、というものです。
日本人に馴染みの深い例を挙げるなら、「鶴の恩返し」などでしょうか。あれも”中を覗かないでくださいね”と言われたものの、そのきまりを破って中を覗いてしまったがために、正体がばれた鶴は去っていってしまう…という筋ですよね。
今回も、”女の子を手中に収めるまで、声を出してはいけない”というタブーが設定されている点で、オルフェウス型神話(見るなの禁)のフレームを使っていると言えます。特に後半、女の子の顔が崩壊していくすごい描写がありますが(あれを書いているのが楽しかった、とどこかで作者は言っていましたね…笑)、あれはオルフェウス型神話の代表例、日本神話のイザナギ・イザナミの物語と非常に近いです。
詳しくは書きませんが、蛆がわく描写などは明らかに死の世界から戻る途中のイザナミを意識しているであろうところです。
(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』p.27 l.3-4)
僕は昔からオルフェウスの物語が好きなんです。黄泉(よみ)の国に「降りていく」話。
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◆”お約束”を破壊している
ところが、みなさまお気づきの通り、本作の主人公はタブーを犯していません。言いつけの通り、ちゃんと声を出さずに耐え切るんですね。なんて村上春樹作品らしい主人公…笑
上述の通り、オルフェウス型神話はタブーを犯して悲劇になる、というフレームですから、この「踊る小人」はオルフェウス型神話のフレームを使っていながら、その枠組みを破壊している非常に挑戦的な小説であるとわたしは考えています。
ではなぜそのようなことをしたのでしょうか?
2つほど説を考えていますが、そのうち今回はより面白そう?なほうをご紹介します。
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◆象工場は出版業界?
なぜ「踊る小人」では既存の物語フレームを破壊しているのか。
その理由として考えられるのが、この物語自体が出版や文学の世界を表していて、そこからの脱却・破壊を表現するためではないかというものです。
その根拠となるのが、象工場の描写。
この象工場が出版物の制作過程に似ている…というのが、わたしが参加した読書会にいらしたYさんのご指摘なのです。
<Yさんのご指摘>
主に以下の点で、出版物(特に雑誌など)の制作ラインとの類似がある。
・パーツごとの分業制である
・比較的暇な担当と、忙しい担当がある
・週に15くらいという制作ペース
・1/5が本物で、4/5が水増しであるという記述
←祈(いのり/inori)の補足:雑誌はページ数や枠が毎回決まっているため、体裁をそろえるために原稿の文字数なり企画なりを増やさないといけない時がある、という意味かと思われます。
いかがですか?
象工場が出版物のメタファーかもしれないなんて、わたしは考えつきもしなかったので、本当に感動しました!同じ作品を読んで語り合う、というのは学びになりますね。
そして、この象工場=出版・文学という見方に立つと、そこで作られた象=出版物・小説、ということになります。
この作品の主人公は最後、完成した象の背中に飛び乗って森に逃げていますよね。警官を踏み潰しながら。
象=出版物・小説であるのなら、これは出版物や小説の力を借りて、権威を踏み潰しながら自分の世界に引きこもったのではないか、言い換えれば、出版業界や文壇からの決別・脱却を宣言しているのではないかと読めると思います。
このように考えると、はじめのなぜ「踊る小人」では既存の物語フレームを破壊しているのかという問いも、以下のように考えられそうです。
つまり、物語の枠組みは借りるけれども、今までの”お約束”に追従することはしない、僕は僕で勝手にやりますという宣言である。
童話のようなパッケージをうまく使いながら、その実、文壇からの脱却宣言かもしれないね…という考察でした。
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◆まとめ
本記事の内容まとめです。
●「踊る小人」はオルフェウス型神話(見るなの禁)の物語フレームを踏襲しているが、タブーを犯していないという点でそのフレームからは逸脱している。
●フレームからの逸脱は、物語の枠組みを借りつつも今までのやりかたに従うことはしないという、出版業界や文壇からの脱却宣言を意味しているか?
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以上です。
Yさん、本当にスペシャルサンクスでした!この場を借りて改めて御礼申し上げます。
(ご覧になっている可能性は低いと思いますが…)
そして申し訳ございませんが次回は1週お休みです。突然雪山に行くことになりました(無事に帰れるかしら…)
2/5(日)の更新をお待ちください!
>今日の蛇足
象の乗り心地ってどうなんですかね。皮膚が分厚いから硬そうなイメージです。
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