祈(いのり/inori)の手控え

本の考察(もとい妄言)を気ままに書く手控えです。 村上春樹作品多めの予定。

【海辺のカフカ】考察:「夢の中から責任は始まる」論

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

半年以上放置していたこのブログですが(済みません)、更新がない間もちょびちょびご覧いただいていたようで、気がつけば2,000PV近くになっていました。
これが客観的にすごいことなのかは正直わからないのですが、嬉しくなったので久々に更新します!積み上げてきたものが成果として可視化されるのはいいものですね。

 

さて、今回は久々に長編。海辺のカフカにチャレンジします。
作中に出てくる「夢の中から責任は始まる」ということについて、イェーツを研究した論文などをもとに考えてみたいと思います。

(以下、同作品のページ数に関するすべての記載は、『海辺のカフカ新潮文庫単行本に拠ります。)



[目次]

◆大島さんの解釈は正しいのか ー イェーツの先行研究 ー

負の遺産=戦争責任?

◆悲しみの記憶を物語として昇華する

◆物語の伝播と佐伯さんの存在

◆まとめ

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◆大島さんの解釈は正しいのか ー イェーツの先行研究 ー

 「夢の中から責任は始まる」とは、『海辺のカフカ』作中でカフカ少年が読んだアイヒマンの裁判に関する本に、大島さんが記載していたメモとして登場します。

 「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilitiesーまさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」(p.277 l.15 - p.278 l.2)

ここを読んだ時、わたしは「あれ?」と思いました。
なぜなら、引用されているイェーツの文章は”In dreams”。素直に考えるなら「想像力の中から」ではなく「の中から」と訳すべきなのではないかと思ったためです。

 ではそもそもイェーツがどのような文脈で上記の文章を用いたのか。サクッと知りたかったのですが、イェーツ自身が詩人であり、上記の文章も詩集『責任(responsibilities)』の中に登場する文章とのことで、一意に決まった解釈はないようでした…
そこで、イェーツが書いた文章の意味するところについては、以下の論文の内容をお借りすることとします。

W.B.イェイツと大江健三郎の揺れ動く想像力 | CiNii Research 木原 誠

 

 論文の内容のうち、今回の記事に関わるところのみざっとまとめると以下の通り。
①夢=想像力と解釈する ←大島さんの解釈と同じ
②想像力は想起すること=記憶に紐づく
③想像力にも2種類あり、喜びの記憶に紐づくプラスの想像力と(例:イデアの想起)、悲しみの記憶に紐づくマイナスの想像力(例:原罪の想起)がある
④マイナスの記憶・想像力もただ排除するのではなく、詩や小説を書く助けとするなど、共存していくことができる

 さすが大島さん。少なくとも1つの論文と同じ解釈を15歳の時点でされていたとは…疑って大変申し訳ございませんでした。

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負の遺産=戦争責任?

 ここから『海辺のカフカ』に視点を戻します。

 この小説では親子の呪いや血友病など、遺伝、それも作中においてマイナスに描写されている負の遺産としての遺伝の要素がいくつも散りばめられています。
これらは小森 陽一『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』などにも書かれているように、第二次大戦における日本の戦争責任のメタファーとして読めると思います。
いわば、否応なく前の世代から継承してしまうマイナス要素です。

https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9%E8%AB%96-%E3%80%8E%E6%B5%B7%E8%BE%BA%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%80%8F%E3%82%92%E7%B2%BE%E8%AA%AD%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E6%A3%AE-%E9%99%BD%E4%B8%80/dp/4582853218

  小森氏の上記評論では、そうした戦争責任を「致し方ないこと」として免罪しているのが『海辺のカフカ』だ…と書いているのですが、先のイェーツの論文を読んでから、わたしは少し違う印象を持ったので以下に記載します。

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◆悲しみの記憶を物語として昇華する

 材料が出揃ったので、まずはもう一度、イェーツの論文のポイントをまとめます。

①夢=想像力と解釈する
②想像力は想起すること=記憶に紐づく
③想像力にも2種類あり、喜びの記憶に紐づくプラスの想像力と(例:イデアの想起)、悲しみの記憶に紐づくマイナスの想像力(例:原罪の想起)がある
④マイナスの記憶・想像力もただ排除するのではなく、詩や小説を書く助けとするなど、共存していくことができる

 前章でふれた『海辺のカフカ』における負の遺産としての戦争責任は、上記でいう③、明らかに悲しみの記憶に紐づくものです。
ということは、④で記載されているように、それらは排除するのではなく、創作の源泉にするなど共存していくことが可能なものであると考えられます。


 上記の立場に立つと、この『海辺のカフカ』という小説自体が、まさに悲しみの記憶を想像力の糧とし、物語というかたちに昇華した1つの実践例であると捉えられるのではないでしょうか。「致し方ないこと」として、臭い物に蓋をして排除しているわけではないのでは…と思いましたが、どうですかね?

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◆物語の伝播と佐伯さんの存在

 別の視点からもう一歩踏み込みます。
海辺のカフカ』はギリシャ神話を中心に、いくつもの物語や神話の構造を吸収・合併してできあがっています。冒頭の砂嵐を潜り抜ける描写もナバホ族の神話に出てくる場面が元ネタになっている可能性がある…など、調べれば調べるほど色々出てきそうです。

 ではなぜこのような構造になっているかというと、物語の伝播性・継承性の高さを春樹先生が信じているからではないかとわたしは考えます。
神話や昔話が良い例ですが、いつ誰が作り出したかわからないような物語が今も語り継がれていますよね。そしてそこには何かしらの教訓や、過去の出来事を内包していることが多い(他人と協力しないと痛い目を見るよ…みたいなやつです)。
ただ語るだけではどうしても薄れてしまいやすい出来事も、物語というかたちにすることでより長く継承されていくようになる…春樹先生はそんな思いから、過去の物語枠組みの力を借りて『海辺のカフカ』を書いたのではないかと愚考しました。

 このように考えると、最終盤で佐伯さんがカフカ少年に「私のことを覚えていてほしいの」と言い、カフカ少年に血を飲ませることにも意味づけができる気がします。
海辺のカフカ』という一連の物語を、そしてその裏にある悲しい記憶を、忘れることなく継承してほしいというメッセージなのではないでしょうか。

 

 ちなみに、佐伯さんは1950年生まれです(上巻p.470 l. 12より、1969年に19歳であることから逆算可能)。そして春樹先生は1949年生まれ先生が同世代の人として佐伯さんを設定し、「息子」に血を分け与えさせたことは、偶然とは思いがたいです。

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◆まとめ

本記事の内容まとめです。

●作中で引用されているイェーツの文章は、夢=想像力ととらえることができる

●作中で描かれる負の遺産的要素は、日本の戦争責任のメタファーであると考えられ、作者はイェーツの引用や作品の存在そのものを通して、その痛みとの向き合い方を示している

●多数の物語構造を吸収しているのは、物語がもつ伝播性・継承性の高さによるものであり、物語とその裏にある出来事を作者と同世代として描かれる佐伯さんを通じて、作者は次世代に継承させている

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以上です!ここまで読んでくださったかた、お疲れ様でした!

 

 

▼前回の記事です。

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▼過去の人気記事です。

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▼番外編です。

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【日々移動する腎臓のかたちをした石】考察:「蜂蜜パイ」のifルート?キリエの神性と呪いからの解放

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

甘いものは昔から苦手なのですが、読書しながらのコーヒーとドーナツに意外とハマってしまいました。でも体質的にコーヒー合わないし(後々頭が痛くなる)、かといって甘いもの単体は甘くて食べられないし…という、あまりにも小さい悩みを抱えております。

 

さて、先日『めくらやなぎと眠る女』(新潮社)を読み返していて思うところがあったので、今回久々に更新です。

個人的にとても好きな作品「日々移動する腎臓のかたちをした石」について。

(以下、同作品のページ数に関するすべての記載は、『東京奇譚集新潮文庫単行本に拠ります。)

 

[目次]

◆”つながり”に気がつきましたか?

◆共通ワードは「かかと」

◆キリエの神性

◆腎臓でなければならない3つの理由

◆「蜂蜜パイ」のifルート?

◆まとめ

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◆”つながり”に気がつきましたか?

『めくらやなぎと眠る女』のイントロダクションによると、『東京奇譚集』は作者が2005年になって「短編小説をまとめて書いてみたい」と久しぶりに思い立ち、1ヶ月の間に5本まとめて書き上げた作品群だそうです。そしてそれらは「奇妙な物語」というテーマを共有しているが、『地震のあとで』(日本語版は『神の子どもたちはみな踊る』が主題として付いていますね)ほど確固としたユニットを形成しているわけではないとのこと。

ただ、東京奇譚集』に収録されている5作品には、単語レベルでの”つながり”があるとわたしは睨んでいます。具体的には以下の通り。

 

◯①偶然の旅人 ↔︎ ②ハナレイ・ベイ:「スターバックス」(p.23 ↔︎ p.90)

◯②ハナレイ・ベイ ↔︎ ③どこであれそれが〜:「アメリカン・エキスプレス」(p.56 ↔︎ p.117)

◯③どこであれそれが〜 ↔︎ ④日々移動する〜:?

◯④日々移動する〜 ↔︎ ⑤品川猿:「嫉妬」(p.178 ↔︎ p.206)

*( )内はそれぞれの単語の初出ページ数

 

いかがでしょうか?

短期間でまとめて書かれた、そして共有のテーマがある作品群ということを踏まえると、この連続性は偶然の一致とは思えません。スターバックスとアメックスに関しては頻出性の低い固有名詞ですし、嫉妬は物語におけるキーワードですしね。

ところが、「③どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「④日々移動する腎臓のかたちをした石」の間には、ぱっと見で同じ単語が使われている箇所はありません。この法則性は誤っているのでしょうか?

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◆共通ワードは「かかと」

ここで少し話が逸れますが、村上春樹読者のかたであればオイディプス王の物語は説明不要でしょう。確認されたいかたは以下リンクからご覧ください。『海辺のカフカ』にも登場した「父を殺し、母と交わる」という神託を受けるギリシャ神話です。

ja.wikipedia.org

今回取り上げている「日々移動する〜」についても、主人公の淳平は16歳の時に父親から”神託”を賜っており、それにとらわれて生きているという点でオイディプス王の物語枠組みに近い点があります。

そしてこの「オイディプスOedipus)」という言葉、「膨れ上がった足」という意味だそうです。なぜそのような変わった名前かというと、子供に殺されるという神託を恐れた父親ライオスが、生まれたばかりのオイディプスを先に殺そうとするも忍びなくなり、代わりに踵(かかと)をブローチで刺して山に放置したからというもの。刺された踵が炎症を起こして腫れ上がっていたんですね。

 

一方「③どこであれ〜」の方では、依頼人のマダムがハイヒールを履いています。そしてそのかかとの鋭さが、執拗に描写されているんですね。

つまり、「③どこであれ〜」と「④日々移動する〜」には共通ワードがないのではなく、「かかと」というつながりが巧妙に隠されているのではないかとわたしは考えます。

 

◯①偶然の旅人 ↔︎ ②ハナレイ・ベイ:「スターバックス」(p.23 ↔︎ p.90)

◯②ハナレイ・ベイ ↔︎ ③どこであれそれが〜:「アメリカン・エキスプレス」(p.56 ↔︎ p.117)

◯③どこであれそれが〜 ↔︎ ④日々移動する〜:「かかと」

◯④日々移動する〜 ↔︎ ⑤品川猿:「嫉妬」(p.178 ↔︎ p.206)

 

この法則性が成り立つことは、

A)『東京奇譚集』における5つの物語は、明確なつながりが意識されていること

B)「どこであれ〜」の物語は、オイディプス王の物語が意識されていること

の2つを示すものと言えそうです。

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◆キリエの神性

ここから物語の中身の考察に入ります。

実はわたしは初読の段階から、この話はギリシャ神話感が強いなとずっと感じていました。その理由はここまで見てきたように、オイディプス王の物語が意識されているのではという物語構造的な部分と、もう一つ、キリエの存在からです。

キリエは作中で「ミサ曲の一部みたい」(p.148)と言われているように、Kyrie=「主よ」を意味する非常に宗教的なギリシャです。

このキリエの神性に着目すると、いくつか面白い妄想ができます。

 

例えば、キリエは自身が天秤座であり、「バランスがとれていないものごとにはどうしても我慢できない」(p.157)と語ります。またキリエの職業(?)も、長い棒を持って高い建物の間をバランスを取りながら移動するという、天秤を連想させるものです。

これらの描写は、天秤でもって善悪を測る正義の女神アストレアを彷彿とさせますよね。

▲これは別の女神テミスとされることが多いそうですが、アストレアと同一視されることもあるとか…?(難しい)飽くまでイメージとして!

他にも、キリエは淳平に

「この世界のあらゆるものは意思を持っている」(p.166)

と語りかけますが、これは事象そのものに意味はなく、観測者が意味を見出すのだとする「①偶然の旅人」とはある種対極の思想と捉えられます。

「偶然の旅人」が観測者側、つまり人間の自由意志から見た側の思想だとすれば、その真逆であるキリエの思想は超越者からの絶対的なメッセージ、分かりやすく言えば神の側の思想と考えることができます。

 

細かい描写は他にもいくつかありますが、このようにキリエには神性が付与されている気がしてなりません。そしてこの神性は、物語の大きな謎である「腎臓のかたちをした石」にも関わっているのではないかとわたしは見ています。

あとちょっとで終わるので頑張ってくださいね!

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◆腎臓でなければならない3つの理由

この作品において非常に印象的な「腎臓のかたちをした石」ですが、これは脳やら肝臓やらではダメで、やはり”腎臓”でなければならないというのがわたしの説です。

 

分かりやすいところからいきましょう。

以下が腎臓の図ですが、この左右一対の構造自体が天秤に見えませんか?

…はい、みなさまのおっしゃりたいことは分かりますよ。

左右一対の臓器なんて他にもあるだろうというのでしょう(肺とかね)。

ので、他に後2つトピックを用意しました。

 

1つは腎臓の機能的な部分。

腎臓のメイン機能は、不要なものを濾し出して浄化し、生物の身体の状態を一定に保つことです。良いものと悪いものを選り分け、バランスを保つというのは正義の女神の役割に相応しいのではないでしょうか。

 

もう1つは「じんぞう」という言葉遊び。

キリエは淳平に「医師を揺さぶる石の意思」(p.165)と抱腹絶倒ギャグを披露していますが、これは「じんぞう」にもかかっているのではとわたしは読んでいます。

「腎臓」の同音異義語としては「人造」がありますが、これは人の手で造られたものという意味ですね。やや飛躍しますが、わたしはこれを人が神の領域にまで到達するように作った人造の塔・バベルの塔のことではないかと捉えています。

ギリシャ神話と旧約聖書で出典は違いますが)この作品は宗教的・神話的モチーフが非常に多いため、この連想はあながち突飛なものでもないかなと。

また、キリエが

「私が興味を持てるのは、直立した人工的な高層建築だけです」(p.174)

と語っていることからも、人造の高い塔であることに意味があるように思えてならないんですよね…。

 

では、ここまで巧みに宗教的・神話的モチーフを配置しているのはなぜなのか。それが最後の考察になります。

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◆「蜂蜜パイ」のifルート?

意図的に最後までふれなかったのですが、この作品、他の村上春樹作品に似ていませんか?

そう、「蜂蜜パイ」です。

本作と「蜂蜜パイ」は、主人公の名前・職業・学生時代の経験(意中の女性と親友が結婚してしまったこと)が一致しています。ワタナベノボルや直子など、一部の特権的な人名を除いて、村上春樹先生が人名を使い回すことはまずありません。その他の項目もここまで一致していることを踏まえると、これは同一人物なのではないかというのがわたしの見解です

ちなみに収録年代は以下の通り。「蜂蜜パイ」より「日々移動する〜」が後になります。

◯「蜂蜜パイ」…2000年2月25日

◯「日々移動する腎臓のかたちをした石」…2005年6月号

 

ここまでの情報から考えたわたしの説は、「日々移動する〜」は「蜂蜜パイ」のもう一つのストーリー(ifルート)であり、小夜子とのエンディングを迎えられなかった淳平が、キリエという女神によって父親の呪いから解放される話なのだというものです。

神託の呪いを解くには同じ神託でなくてはならないでしょう。だからこそ淳平を導く女性であるキリエには、ここまで神性が付与されていなくてはならなかったのではないでしょうか。

 

ちなみに「キリエ・エレイソン(Kyrie eleison)」はキリスト教における重要な祈りの文言のひとつで、意味は「主、憐れめよ」。

救済の手を差し伸べる存在として設定されたのだとすれば、なかなかにおしゃれなネーミングであると思いませんか?

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◆まとめ

本記事の内容まとめです。

●『東京奇譚集』の5作品には単語レベルでつながりがあり、「日々移動する〜」は「かかと」という単語で前作とつながっている

オイディプス/キリエの神性/腎臓=人造=バベルの塔など、本作には多数の宗教的・神話的モチーフが散りばめられている

●本作は「蜂蜜パイ」のifルートと考えられ、小夜子とのエンディングを迎えられなかった世界線の淳平が、キリエという女神によって父親の呪いから解放される話なのではないか

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以上です!ここまで読んでくださったかた、お疲れ様でした!

 

 

▼同じ『東京奇譚集』収録作品の考察記事です。

inori-book.hatenablog.com

 

▼前回の記事です。

inori-book.hatenablog.com

 

▼過去の人気記事です。

inori-book.hatenablog.com

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▼番外編です。

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※ネタバレ注意!※最速考察②【街とその不確かな壁】移り変わらないものはない

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

突然ですが、みなさんは夏休みの宿題を先にやる派ですか?後にやる派ですか?

わたしは初日と最終日にやる派です。

初日にガーッと8割くらい片付けて、気分が乗らないものはずっと放置するんですね。

で、文句を言いながら残りの2割を最終日に泣く泣くやる、と。

 

何が言いたいかと言うと、わたしはルーティンが大嫌いな超絶気分屋だということです。

というわけで、今は気分が乗っているので記事を2本連続でUPします。

最新刊『街とその不確かな壁』について、2本目はわたしの個人的な考察です。

 

※以下、注意事項※

1.最新作のネタバレを含みます。未読のかたはお気をつけください。

2.今回はスピード重視で記事を上げています。今後加筆・修正等が行われる可能性が高いです。

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◆キーワードは「平衡」

いきなりですが、今作を読んだ時にわたしが最初に思い浮かべたワードは「平衡」でした。つまり、釣り合いが取れている状態ということです。

そして、主に物理学や化学の分野において、この釣り合いが取れているという状態はさらに2種類に分けられます。①静的平衡動的平衡という2つです。

①静的平衡は文字通り止まっているものに関する平衡で、テーブルの上に置いたペンのように、全く動いていない状態を指します。

一方の動的平衡我々人間をイメージするとわかりやすいと思います。

我々人間は食事や呼吸によって外部からエネルギーを取り入れ、それと同じだけ排出をしています。その収支が合っているから、見かけ上は変化していないわけですね。

このように、お財布に入った額と同じ額だけ出ていっている(から見かけの残高は同じ)状態を、動的平衡と呼びます。

この2種類の平衡が、そのまま壁の中と外の世界に適用できるのではと考えられるのです。

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壁の外=動的平衡壁の中=静的平衡(?)

まず、壁の外の世界ですが、これは我々が生きている世界と同じルールで動いていると考えられますので、間違いなく動的平衡が存在する世界です。

一方で、壁の中の世界では人が死ぬことはなく、時間も(実質的に)存在していません。主人公以外は飲み食いをしている描写もありません。これらのことから、一見すると壁の中の世界は静的平衡の世界なのか…と考えられます。

ところが、壁の中の世界には、壁の内と外を行き来し、生と死を繰り返す生き物が存在します。そう、単角獣です。

単角獣の出入りや生と死のサイクルによって、この街は保たれているわけです。

主人公の影が「この街は完全じゃない」と看破したように、この街の静的平衡による永劫性は見せかけで、実際はこの街にも動的平衡は存在していると考えるべきでしょう。

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◆移り変わらないものはないーここから何が言えるのか

上記をざっくりまとめると、どのような世界においても動的平衡は存在し、移り変わらないものはない…ということが言えるのではないでしょうか。

そして、ここからどんなメッセージを読み取るかは個人の判断に委ねられているように思います。読み解き方が多すぎるんですよね…

ので、「これが正解」というものはないと思うのですが、個人的にこうかな?と読み取ったメッセージを2つ紹介します。

 

1つ目は、「分断」に対する村上春樹なりの回答なのではないかということ。

この作品は2020年のはじめから着手したことがあとがきに書かれていますが、この頃はコロナウイルスによる個人の分断や政治・経済の分断を中心に、「分断」という言葉が一種のホットワードになっていました。

ですが、これまで見てきたように生き物や世界は二元論的にパキッと分けることは難しいです。さっきまで自分の一部だったものは、次の瞬間には排出されて自分の外部となり、それは同時に世界の一部になるということを意味するので…。裏を返せば、さっきまで他人だと思っていたものの一部は、次の瞬間には自分の一部になっているわけです。

自分と他人、自分と世界をパキッと分けられないからこそ、「分断」による排斥は止めませんかというメッセージだと読み取ることができると思います。

まさに「不確かな壁」というタイトルにぴったりだと思いますし、あとがきの「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」という記述にも一致するかなと。

 

2つ目は(こちらは自分でもあまりしっくりいっていないのですが)、1つの愛の形を示しているのではないかということ。

突然の自分語りになりますが、わたしは申し訳ないことにほとんどアニメを見ません。ですが、学生時代に授業で見せてもらって衝撃を受けたアニメがあります。

それが魔法少女まどか☆マギカです。

▲U-NEXTやAmazonプライムで見られるようです(有料)。

めちゃめちゃ面白いので詳細は見てください…と言いつつ、話の例として適当なので壮大なネタバレをするのですが(10年以上前のアニメだからいいよね)、登場人物の1人「ほむら」は、何度も同じ期間をやり直して友人の「まどか」を助けようとします。ただ、「ほむら」が救いたいのは孤独だった自分に声をかけてくれた世界線の「まどか」であって、やり直した別の世界線の「まどか」はまったく接点のない人物だったりするんですよね。でも彼女の中では途中から「まどか」という存在を救うことが目的になっていって、それがある意味では無意味で滑稽だという風に描かれている(気がします)。

 

でも、これってある意味1つの愛の形だとも思えるのです。

人は見かけは同じでも、精神的・肉体的な構成要素は変わっていってしまうかもしれない。けれど、総体としての、村上春樹の言葉を借りれば「絶対的な観念」としてのその人を愛するというのは、1つの愛の形なのでは…と愚考します。この小説は「1000%の恋愛小説」だったんですね。

先ほどの動的平衡の話によれば、1年もすれば(見かけは同じでも)分子レベルでの中身は全く別人になっているそうですよ。せめて見かけだけは変わらずありたいものですね。

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ということで、「まどマギ」しゃべりたかっただけでは…?とバレる前に〆ようと思います。お疲れ様でした!

 

>今日の蛇足

動的平衡の考え方に寄与した科学者:シェーンハイマーは、「生命が絶え間なく流れている」と言ったそうです。流れの比喩やエントロピーの話を視野に入れると、本作で主人公が川を遡っていくことにも納得がいきますよね。

 

▼前回の記事です。

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▼過去の人気記事です。

inori-book.hatenablog.com

inori-book.hatenablog.com

 

▼番外編です。

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※ネタバレ注意!※最速考察【街とその不確かな壁】章の数字が意味するもの

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

村上春樹6年ぶりの新刊、出ましたね!

わたしは新宿紀伊國屋で開催されていたカウントダウンイベントに参加しまして、

なんと各種メディアから取材をしていただきました。

わたしがほぼ毎回参加している読書会「Futako Book Club」のメンバー4人で向かったのですが、団体で来ている人が少なかったからなのでしょうか(あるいは我々が1時間近く前から待機していたやばい人たちだったからかも)、10を超える媒体から取材をしていただきました。自分たちの活動が取り上げられるというのは感慨深いものです。

 

そして本日4/15(土)、おそらく世界最速となる『街とその不確かな壁』読書会を実施しまして、その過程で面白い考察が生まれたのでメモ的に残しておきます。

我らが「Futako Book Club」のボスも同内容をポッドキャストにUP予定…?とのことですので、音声メディアをお好みのかたはそちらをどうぞ!

music.amazon.co.jp

※以下、注意事項※

1.最新作のネタバレを含みます。未読のかたはお気をつけください。

2.上述の通り、わたし個人の考察ではありません。「Futako Book Club」の考察としてお読みください。

3.今回はスピード重視で記事を上げています。今後加筆・修正等が行われる可能性が高いです。

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◆章の数が多い?

突然ですがみなさん、本作は1つの章が短い、言い換えれば文量に対して章の数が多いと思いませんでしたか?

参考までに過去作の章数と見比べてみると、以下の通りでした。

★本作…661p/70章

◯『騎士団長殺し』…(単行本上下合わせて)1,048p/64章

◯『1Q84』…(新潮文庫6冊合わせて)2,157p/31章

◯『海辺のカフカ』…(新潮文庫上下合わせて)1,014p/49章

◯『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』…(新潮文庫上下合わせて)744p/40章

 

…いかがでしょう?明らかに多いと思います。

『世界の終り〜』のように、章の切り替えで視点が切り替わるような構成になっているわけでもないので、この章数の多さには別の意味を見出した方がよさそうです。

ここからが考察になります。

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◆章の数=年齢?

この「70」という章の数に対して考えられることが、これは年齢を表しているのではないかというものです。

理由は以下2点。

1.本作執筆開始時点での作者の年齢が70〜71歳と考えられるから

2.短編「プールサイド」において、35歳が人生の折り返し地点という記述がある

=作者が人生を70歳と捉えている可能性があるから

 

さらに、理由1について面白いことに気が付きましたので補足します。

章の数=作者の年齢と考えた場合、作者の半生にリンクする部分が本文中に散見されるのです。

<例>

◯19章=作者19歳のとき

…(本作)主人公の孤独な大学生活が描かれる

…(作者)早稲田大学第一文学部に入学、和敬塾に下宿

 

◯29章=作者29歳のとき

…(本作)新たな場所が必要であると思い立ち、図書館で働くことを決める

…(作者)エピファニーを受け、小説を書こうと思い立つ

 

◯35-36章=作者35-36歳のとき

…(本作)「私のすべての思考や推論は必ず行く手を厚い壁に遮られ、そこより先に進むことはできなかった。」子易さんが影を持たない人間であることが明かされる

=『世界の終り〜』的世界観の明示

…(作者)『世界の終り〜』執筆。同作で第21回谷崎潤一郎賞を受賞

 

まだまだ探せば(こじつければ?)あるのでしょうが、

特に29章-30章あたりで大転換が起こっていることは、偶然の一致と捉えて良いものか悩むところです。

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以上、スピード重視で最新刊に関するおもしろ考察を上げてみました。

読みどころ満載の最新刊、引き続きウォッチしていきます!

それでは取り急ぎ。

【辺境・近境】旅行記:有給を持たない社畜・祈と、春樹巡礼の旅(香川編)①

◆序章ーある日のオフィスにてー

上司「祈さん、最近働き詰めだねぇ。」

祈「(毎日何かしらの締切があるから仕方ない)ですね!」

上司「ところで、祈さんは勤続○年目だから、特別休暇を取ってね。」

祈「ト…トクベツキュウカ?」

上司「そう、勤続○年ごとに5営業日の休暇が付与されるよ。分割はできないよ。取得しないと怒られるから年度末までに取ってね。」←このとき2月末

祈「…はい!(ニッコリ」

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ということで、忘れていたわたしが完全に悪いのですが、急遽5営業日(=実質1週間)のお休みをいただくことに。

が、悲しい社畜であるわたしは休みをいただいても何をしていいか分からないので、ヒントを求めて手持ちの本をパラパラとめくります。

…これだ。

ということで、1泊2日で弾丸香川旅に行ってまいりましたので、そのレポです!

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◆旅のルールとか

<目的>

村上春樹先生の著「讃岐・超ディープうどん紀行」(収録は『辺境・近境』)に記載されている5つのうどん屋さんを全て回ること。回る順番は問わない。

<ルール>

①旅行中はGoogleマップ以外のWebブラウザ、アプリ、SNS等を一切使用しないこと

②できるだけ安価な旅にすること

 

▼今回お邪魔した5件は以下の通りです▼

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◆1章ー出発から1件目までー

ジェットスターさんの高松空港行きチケットが奇跡的に1枠空いていたので、朝7:50というなかなか早い便で高松へ。

さて、早速1つプチ誤算が生じます。

(成田や羽田みたいに)空港からは主要駅まで電車が通っているだろう、と思っていたのですが、そんなものはありませんでした。

シャトルバスが(おそらく頻繁に)出ているので、それを利用して高松駅まで行くのが最善手なのかなと思います。所要時間は40分くらい。

四国が舞台ということで、この子を連れてきておいてよかった。

▲世界でいちばんタフな15歳…はさすがに厳しいかな。

さくらさん的な人との出会いも特にないまま、高松駅に到着。

ここからですが、まずはマップの左側(=香川の西側)から攻めていく作戦をとりました。右側にあるのが「久保うどん」さんだけだったので、そこは2日目に高松に帰りながら寄ればいいかな、と。

 

ということで予讃線(よさんせん)に乗り、1件目の「山下うどん」さんに向かいます。予讃線無人駅ばっかりで、「正しい料金のきっぷを買ってね」というアナウンスが車内に響くほのぼの仕様。やろうと思えば楽勝で無賃乗車できてしまいそうですが、そういうことのない素敵な土地柄なのだろうと思います。

讃岐府中」駅で下車。

本に書かれていた通り、綾川という川に沿ってひたすら河川敷を歩くこと15分、「山下うどん」さんを発見!

これやっているの?と思いましたが、営業中の旗が出ていたので勇気を持って店内へ。ちなみにやや分かりにくいですが画像右奥が入り口です。

ああ、感動!

本と同じく、ちゃんと入り口に「郵便局集配職員休息所」の札が!

←本では「休所」となっていましたが、「休所」でした。看板変わったのかも。

店内はこちら。うーむ、これはディープ…。5件回り終えた今考えても、店内の雰囲気が一番ディープだったのはこのお店ではないかなと思います。

うどんは本によると1玉100円だったようですが、この時は250円。物価高騰。持ち帰りは変わらず1玉100円だそうなのでそっちのことかな?

わたしが入店したときには観光客と思しき女子大生5人くらいのグループがいましたが、その人たちが出て行った後は地元民の皆様だけ。お昼時(11時過ぎくらい)だったため、作業着やスーツを着たかたも多かったです。

お作法が分からずおろおろしていると、チャキチャキとやり手っぽい店員さんが優しく声をかけてくださいました。このお店ではまずうどんの種類を注文して、自分で好きにちくわやらコロッケやら追加トッピングを乗せて、おつゆをかけていただくようです。注文して30秒くらいでうどんの入った器を渡された時はびっくりしました。うどんの提供ってこんな早いの?香川県民の特殊能力?

わたしは香川県に訪れること自体初めてでしたので、初香川うどんは何も乗せずシンプルにいただきます。

食レポなんてできない上に味音痴なので、感想は「美味しい」としか言えないのですが、のんびりとした一種の非日常を味わうことができたと思います。うどんをゆがく大きな釜が出すほのかな香りと、何やら分からない機械の音と、「古いポーランド映画みたい」な温かい光の粒と…五感全体で、ゆっくり時間が流れている感じを体感できました。良い旅になりそう!

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ということで、長くなりましたので第一弾はここまで。

なるはやで続きを書くようにします!

ではでは次回の記事でお会いしましょう。

 

▼前回の記事です。

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▼過去の人気記事です。

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▼番外編です。

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【1973年のピンボール】考察:フラクタル構造としての「ピンボール」

お久しぶりです、祈(いのり/inori)です。

1週間…と言いつつ2週間のお休みをいただいてしまい申し訳ありませんでした。

雪山に行ったり(前回の記事↓参照)、社畜生活を極めたりしていました。

inori-book.hatenablog.com

 

さて、今回は村上春樹1973年のピンボールについて書いていきます。割とさらっとした考察になるかな、と。

風の歌を聴け』に続く2つ目の作品ですね!

(以下、『1973年のピンボールのページ数に関するすべての記載は、講談社文庫単行本に拠ります。)

ピンボールやったことないなぁ。
画像:https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB&search_type=usertyped&asset_id=449131832

[目次]

◆これはピンボールについての小説である

◆僕=ボール/直子=ピンボールマシン?

◆残る謎:3つ目のフリッパー

◆まとめ

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◆これはピンボールについての小説である

この小説にはピンボール的要素がたくさんあるように思われます。

有名な読み方ですが、交互に話す双子208と209は、ピンボールにおけるフリッパー(落ちてくるボールを打ち返すもののこと)を表しているのではないか…という説は面白いですよね。わたしもこの読み方に賛成です。

ピンボールの仕組みについてはわたしも詳しくありません…今回の記事を書くにあたり、これらのサイトを参考にさせていただきました。

ピンボール教室 - 用語集/pinball.co.jp

[概要版]ピンボール各部名称及びパーツ等の情報 (随時更新) | ピンボール 業務用ゲーム 両替機 販売 買取 修理 部品 リース レンタル

 

他にも、ベトナム戦争や第二次大戦の話は、双子同様に左右一対・行ったり来たりというフリッパー的要素を彷彿とさせますし、翻訳についての描写(左手に硬貨を持つ…)はピンボールをプレイするときの描写とも読めそうです。

さらに、これはわたしが参加させていただいた読書会で他の方が指摘されていたことなのですが、小説冒頭で出てくる直子の街自体がピンボール的であるという読み方が可能なようです。

井戸に落ちる=コインを投入する、犬がプラットホームを歩く=ボールに対する障害物である、などという読み方です。大変しっくりきますよね。

 

さて、ここまで符合すると、この作品の最初のほうに書かれている1文、

(p.28 l.4)これはピンボールについての小説である。

という文章の受け止め方が変わってくるように思えます。

つまり、この小説は”本当に”ピンボールについて書かれている。言い換えれば、双子をはじめとする登場人物たちや、小説の構造もピンボールに照らして考える必要があるのではないかということです。

ピンボールというタイトルパッケージの中に、ピンボール的構造で書かれた小説があり、さらにその中でも物語の一部として、ピンボールの話が書かれている…

このようなことを厨二病的にかっこよく言いたかったので、本記事のタイトルは<フラクタル構造としての「ピンボール」>としてみました。フラクタル構造というのは、ものすごく簡単に言うと同じ図形が繰り返し現れる図形・構造のこと←間違っていたらこっそり教えてね! 

少し前に流行った「アナと雪の女王」の英語版の歌詞に frozen fractals all around とあるよ…という豆知識もどうぞ。英語の教材で出てきたのです。懐かしい。

フラクタル構造のイメージです。
画像:https://pixabay.com/ja/vectors/%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc-%e3%83%95%e3%83%a9%e3%82%af%e3%82%bf%e3%83%ab-%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89-2858923/

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◆僕=ボール/直子=ピンボールマシン?

では、この小説の構造をピンボール的に捉えるとどうなるか。

登場人物に関して、以下のように考えるのがおさまりがいいとわたしは思います。

◯双子=フリッパー ←これはほぼ確定

◯僕=ボール

◯直子=ピンボールマシン(スペースシップ)

 

双子については前述の通りなので、なぜ僕=ボールなのかというところから説明を加えます。

理由は大きく2つ。①ロストボールを探す描写があるから②バンカー(砂場)を大切にしているからです。

①について、僕が双子と一緒にゴルフのロストボールを探す場面がありますね。これはロストした(失われた)自分自身を探していると読むことはできないでしょうか。

他にも、そのままでは落ちて行ってしまうボールである僕を、フリッパーである双子が打ち返して、現実の世界にとどめているのではないかという読みも、物語的に成立しそうです。

また②について、実はピンボールにもゴルフで言うバンカーのようなものがあるのだそうです。前述のサイトによると「ソーサー」「スクープ」「ホール」などと言うそうで、ここはゴルフと異なり、ボールが入ることでイベントが始まったり何かを獲得できたりする、基本的にプラスな場所なのだとか。

ボールである自分にとって好ましい場所だから、バンカー(砂場)を僕は執拗に意識し、神聖な場所としてクリーンに保ったのではないでしょうか

 

次に直子=ピンボールマシン説。こちらのほうがわかりやすいかもしれませんね。

理由はズバリ、物語のクライマックスシーンにおける、僕とピンボールマシンとの対話からです。ここで対話するピンボールマシンは明らかに女性的な性格を付与されています。15章で「あなたのせいじゃない」「終ったのよ、何もかも」と語りかけてくる様からも、このポジションは直子でしょう。

 

そしてここからは補足です。

印象的なアイテムに配電盤が登場しますが、ピンボールも電気を使うため配電盤があると考えられます。

これを交換した後、不要となった古い配電盤に主人公は執着し、「死なせたくない」と言い、お葬式までするわけですが、この結果僕は双子とのコミュニケーションがうまくいかなくなったり、仕事に身が入らなくなったりしています。

一見不思議なこのエピソードも、配電盤の交換によって直子というマシンが(あるいは”この小説”というピンボールマシン自体が)機能不全になったという見方ができると思います。

そして双子はフリッパー、つまりマシンの一部だから、当然配電盤についてよく知っているということですね。

▲配電盤のフリー画像なんて…ありました。
画像:https://stock.adobe.com/jp/search?filters%5Bcontent_type%3Aphoto%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aillustration%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Azip_vector%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Avideo%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Atemplate%5D=1&filters%5Bcontent_type%3A3d%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aimage%5D=1&k=%E9%85%8D%E9%9B%BB%E7%9B%A4&order=relevance&safe_search=1&search_page=1&search_type=usertyped&acp=&aco=%E9%85%8D%E9%9B%BB%E7%9B%A4&get_facets=0&asset_id=489957934

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◆残る謎:3つ目のフリッパー

最後に、現時点でわたしなりの回答を持てていない謎をメモ的に書いておきます。

それは、3つ目のフリッパーは誰か?という問題です。

 

というのも、作中に描かれる「スペースシップ」は、フリッパーが3つあるとわざわざ明言されているのです。最初は、作者が所有していたマシンが3フリッパーだったからか?くらいに思いましたが、作者のエッセイ『村上朝日堂 はいほー!』収録の「スペースシップ号の光と影」によると、作者がピンボールマシンを入手したのは『1973年のピンボール』という小説を書いた後のようですし、そもそも実際のマシンはフリッパーが2枚しかないとのこと。つまり、作中のマシンは意図的にフリッパーが3枚に設定されていると考えるのが自然です。ならば、対応する人物がいるはず…

 

消去法的に考えると「鼠」ですが、これだ!という描写が見つけられず…というところです。

わたしも読み直してみますが、こうじゃないかな?という説をお持ちのかた、ご存知のかた、ぜひご一報くださいませ。コメントやDM解放しております!

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◆まとめ

本記事の内容まとめです。

●『1973年のピンボール』は、登場人物や小説の構造もピンボールを意識して設定されていると読める。

●上記の読み方で考えると、双子=フリッパー/僕=ボール/直子=ピンボールマシンと考えることができる。

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以上です!

 

2月中はちょっと不定期更新になるかもですが、なるべく毎週更新目指してがんばります。いったん2/19の更新をお待ちくださいませ。それではまた!

 

>今日の蛇足

東京(新宿区)高田馬場に、ピンボールがプレイできる場所があるのだとか。

今度行くことがあったらレビューする…かもです。いつになるやら(笑)

 

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【踊る小人】考察:文壇からの決別の物語だった?

ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。

印象深い童話は「人魚姫」。生まれて初めて聞いたかもしれないバッドエンドの物語で、その夜眠れなくなったことを覚えています。あの頃は心が綺麗だったんですね…今やバッドエンドを進んで求めるモンスターに成り果ててしまいました。

 

さて、今回はそんな童話っぽさが色濃く出ている村上春樹「踊る小人」

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』『象の消滅』などに掲載されています。

この物語の構造について、現時点で気になるところを書いてみましたので、よかったら続きをご覧ください。

(以下、「踊る小人」のページ数に関するすべての記載は、新潮文庫『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に拠ります。)

▲こんなにかわいい小人のイメージをわたしは抱かなかったのですが…みなさまどうですか?
画像:https://pixabay.com/ja/photos/%e3%82%b9%e3%82%ba%e3%83%a9%e3%83%b3-%e9%a6%99%e3%82%8a-%e9%a6%99%e3%82%8a%e3%81%8c%e3%82%88%e3%81%84-4166958/

[目次]

◆物語フレーム ーオルフェウス型神話(見るなの禁)ー

◆”お約束”を破壊している

◆象工場は出版業界?

◆まとめ

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◆物語フレーム ーオルフェウス型神話(見るなの禁)ー

早速ですが、この作品は非常に寓話性がありますよね。『グリム童話』とかに載っていそうな感じ。

そのように感じる理由はいくつかあると思うのですが、大きな理由の1つは、この物語がオルフェウス型神話(見るなの禁)と呼ばれる物語フレームを使っているからだと思われます。

 

オルフェウス型神話(見るなの禁)とは何か。一応解説しておきます。

これは世界各国の神話などにみられる物語フレーム、言い換えれば”お約束”の一種で、何かをしてはいけないよと言われたものの、そのきまりを破ってしまったがために悲劇的な結果が訪れる、というものです。

日本人に馴染みの深い例を挙げるなら、「鶴の恩返し」などでしょうか。あれも”中を覗かないでくださいね”と言われたものの、そのきまりを破って中を覗いてしまったがために、正体がばれた鶴は去っていってしまう…という筋ですよね。

 

今回も、”女の子を手中に収めるまで、声を出してはいけない”というタブーが設定されている点で、オルフェウス型神話(見るなの禁)のフレームを使っていると言えます。特に後半、女の子の顔が崩壊していくすごい描写がありますが(あれを書いているのが楽しかった、とどこかで作者は言っていましたね…笑)、あれはオルフェウス型神話の代表例、日本神話のイザナギイザナミの物語と非常に近いです。

詳しくは書きませんが、蛆がわく描写などは明らかに死の世界から戻る途中のイザナミを意識しているであろうところです。

(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』p.27 l.3-4)

僕は昔からオルフェウスの物語が好きなんです。黄泉(よみ)の国に「降りていく」話。

オルフェウスは竪琴の名手ですね。
画像:https://stock.adobe.com/jp/search?filters%5Bcontent_type%3Aphoto%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aillustration%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Azip_vector%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Avideo%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Atemplate%5D=1&filters%5Bcontent_type%3A3d%5D=1&filters%5Bcontent_type%3Aimage%5D=1&order=relevance&safe_search=1&limit=100&search_page=1&search_type=usertyped&acp=&aco=%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%B9&k=%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%B9&get_facets=0

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◆”お約束”を破壊している

ところが、みなさまお気づきの通り、本作の主人公はタブーを犯していません。言いつけの通り、ちゃんと声を出さずに耐え切るんですね。なんて村上春樹作品らしい主人公…笑

 

上述の通り、オルフェウス型神話はタブーを犯して悲劇になる、というフレームですから、この「踊る小人」はオルフェウス型神話のフレームを使っていながら、その枠組みを破壊している非常に挑戦的な小説であるとわたしは考えています。

 

ではなぜそのようなことをしたのでしょうか?

2つほど説を考えていますが、そのうち今回はより面白そう?なほうをご紹介します。

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◆象工場は出版業界?

なぜ「踊る小人」では既存の物語フレームを破壊しているのか。

その理由として考えられるのが、この物語自体が出版や文学の世界を表していて、そこからの脱却・破壊を表現するためではないかというものです。

 

その根拠となるのが、象工場の描写。

この象工場が出版物の制作過程に似ている…というのが、わたしが参加した読書会にいらしたYさんのご指摘なのです。

 

<Yさんのご指摘>

主に以下の点で、出版物(特に雑誌など)の制作ラインとの類似がある。

・パーツごとの分業制である

・比較的暇な担当と、忙しい担当がある

・週に15くらいという制作ペース

・1/5が本物で、4/5が水増しであるという記述

←祈(いのり/inori)の補足:雑誌はページ数や枠が毎回決まっているため、体裁をそろえるために原稿の文字数なり企画なりを増やさないといけない時がある、という意味かと思われます。

 

いかがですか?

象工場が出版物のメタファーかもしれないなんて、わたしは考えつきもしなかったので、本当に感動しました!同じ作品を読んで語り合う、というのは学びになりますね。

 

そして、この象工場=出版・文学という見方に立つと、そこで作られた象=出版物・小説、ということになります。

この作品の主人公は最後、完成した象の背中に飛び乗って森に逃げていますよね。警官を踏み潰しながら。

象=出版物・小説であるのなら、これは出版物や小説の力を借りて、権威を踏み潰しながら自分の世界に引きこもったのではないか、言い換えれば、出版業界や文壇からの決別・脱却を宣言しているのではないかと読めると思います。

 

このように考えると、はじめのなぜ「踊る小人」では既存の物語フレームを破壊しているのかという問いも、以下のように考えられそうです。

つまり、物語の枠組みは借りるけれども、今までの”お約束”に追従することはしない、僕は僕で勝手にやりますという宣言である。

 

童話のようなパッケージをうまく使いながら、その実、文壇からの脱却宣言かもしれないね…という考察でした。

▲僕は僕で勝手にやります。
画像:https://pixabay.com/ja/photos/%e8%b1%a1%e3%81%ab%e4%b9%97%e3%82%8b-%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%bc-266100/

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◆まとめ

本記事の内容まとめです。

●「踊る小人」はオルフェウス型神話(見るなの禁)の物語フレームを踏襲しているが、タブーを犯していないという点でそのフレームからは逸脱している。

●フレームからの逸脱は、物語の枠組みを借りつつも今までのやりかたに従うことはしないという、出版業界や文壇からの脱却宣言を意味しているか?

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以上です。

Yさん、本当にスペシャルサンクスでした!この場を借りて改めて御礼申し上げます。

(ご覧になっている可能性は低いと思いますが…)

 

そして申し訳ございませんが次回は1週お休みです。突然雪山に行くことになりました(無事に帰れるかしら…)

2/5(日)の更新をお待ちください!

 

>今日の蛇足

象の乗り心地ってどうなんですかね。皮膚が分厚いから硬そうなイメージです。

 

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