ごきげんよう、祈(いのり/inori)です。
半年以上放置していたこのブログですが(済みません)、更新がない間もちょびちょびご覧いただいていたようで、気がつけば2,000PV近くになっていました。
これが客観的にすごいことなのかは正直わからないのですが、嬉しくなったので久々に更新します!積み上げてきたものが成果として可視化されるのはいいものですね。
さて、今回は久々に長編。『海辺のカフカ』にチャレンジします。
作中に出てくる「夢の中から責任は始まる」ということについて、イェーツを研究した論文などをもとに考えてみたいと思います。
(以下、同作品のページ数に関するすべての記載は、『海辺のカフカ』新潮文庫単行本に拠ります。)
[目次]
◆大島さんの解釈は正しいのか ー イェーツの先行研究 ー
◆負の遺産=戦争責任?
◆悲しみの記憶を物語として昇華する
◆物語の伝播と佐伯さんの存在
◆まとめ
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◆大島さんの解釈は正しいのか ー イェーツの先行研究 ー
「夢の中から責任は始まる」とは、『海辺のカフカ』作中でカフカ少年が読んだアイヒマンの裁判に関する本に、大島さんが記載していたメモとして登場します。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilitiesーまさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」(p.277 l.15 - p.278 l.2)
ここを読んだ時、わたしは「あれ?」と思いました。
なぜなら、引用されているイェーツの文章は”In dreams”。素直に考えるなら「想像力の中から」ではなく「夢の中から」と訳すべきなのではないかと思ったためです。
ではそもそもイェーツがどのような文脈で上記の文章を用いたのか。サクッと知りたかったのですが、イェーツ自身が詩人であり、上記の文章も詩集『責任(responsibilities)』の中に登場する文章とのことで、一意に決まった解釈はないようでした…
そこで、イェーツが書いた文章の意味するところについては、以下の論文の内容をお借りすることとします。
W.B.イェイツと大江健三郎の揺れ動く想像力 | CiNii Research 木原 誠
論文の内容のうち、今回の記事に関わるところのみざっとまとめると以下の通り。
①夢=想像力と解釈する ←大島さんの解釈と同じ
②想像力は想起すること=記憶に紐づく
③想像力にも2種類あり、喜びの記憶に紐づくプラスの想像力と(例:イデアの想起)、悲しみの記憶に紐づくマイナスの想像力(例:原罪の想起)がある
④マイナスの記憶・想像力もただ排除するのではなく、詩や小説を書く助けとするなど、共存していくことができる
さすが大島さん。少なくとも1つの論文と同じ解釈を15歳の時点でされていたとは…疑って大変申し訳ございませんでした。
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◆負の遺産=戦争責任?
ここから『海辺のカフカ』に視点を戻します。
この小説では親子の呪いや血友病など、遺伝、それも作中においてマイナスに描写されている負の遺産としての遺伝の要素がいくつも散りばめられています。
これらは小森 陽一『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』などにも書かれているように、第二次大戦における日本の戦争責任のメタファーとして読めると思います。
いわば、否応なく前の世代から継承してしまうマイナス要素です。
小森氏の上記評論では、そうした戦争責任を「致し方ないこと」として免罪しているのが『海辺のカフカ』だ…と書いているのですが、先のイェーツの論文を読んでから、わたしは少し違う印象を持ったので以下に記載します。
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◆悲しみの記憶を物語として昇華する
材料が出揃ったので、まずはもう一度、イェーツの論文のポイントをまとめます。
①夢=想像力と解釈する
②想像力は想起すること=記憶に紐づく
③想像力にも2種類あり、喜びの記憶に紐づくプラスの想像力と(例:イデアの想起)、悲しみの記憶に紐づくマイナスの想像力(例:原罪の想起)がある
④マイナスの記憶・想像力もただ排除するのではなく、詩や小説を書く助けとするなど、共存していくことができる
前章でふれた『海辺のカフカ』における負の遺産としての戦争責任は、上記でいう③、明らかに悲しみの記憶に紐づくものです。
ということは、④で記載されているように、それらは排除するのではなく、創作の源泉にするなど共存していくことが可能なものであると考えられます。
上記の立場に立つと、この『海辺のカフカ』という小説自体が、まさに悲しみの記憶を想像力の糧とし、物語というかたちに昇華した1つの実践例であると捉えられるのではないでしょうか。「致し方ないこと」として、臭い物に蓋をして排除しているわけではないのでは…と思いましたが、どうですかね?
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◆物語の伝播と佐伯さんの存在
別の視点からもう一歩踏み込みます。
『海辺のカフカ』はギリシャ神話を中心に、いくつもの物語や神話の構造を吸収・合併してできあがっています。冒頭の砂嵐を潜り抜ける描写もナバホ族の神話に出てくる場面が元ネタになっている可能性がある…など、調べれば調べるほど色々出てきそうです。
ではなぜこのような構造になっているかというと、物語の伝播性・継承性の高さを春樹先生が信じているからではないかとわたしは考えます。
神話や昔話が良い例ですが、いつ誰が作り出したかわからないような物語が今も語り継がれていますよね。そしてそこには何かしらの教訓や、過去の出来事を内包していることが多い(他人と協力しないと痛い目を見るよ…みたいなやつです)。
ただ語るだけではどうしても薄れてしまいやすい出来事も、物語というかたちにすることでより長く継承されていくようになる…春樹先生はそんな思いから、過去の物語枠組みの力を借りて『海辺のカフカ』を書いたのではないかと愚考しました。
このように考えると、最終盤で佐伯さんがカフカ少年に「私のことを覚えていてほしいの」と言い、カフカ少年に血を飲ませることにも意味づけができる気がします。
『海辺のカフカ』という一連の物語を、そしてその裏にある悲しい記憶を、忘れることなく継承してほしいというメッセージなのではないでしょうか。
ちなみに、佐伯さんは1950年生まれです(上巻p.470 l. 12より、1969年に19歳であることから逆算可能)。そして春樹先生は1949年生まれ。先生が同世代の人として佐伯さんを設定し、「息子」に血を分け与えさせたことは、偶然とは思いがたいです。
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◆まとめ
本記事の内容まとめです。
●作中で引用されているイェーツの文章は、夢=想像力ととらえることができる
●作中で描かれる負の遺産的要素は、日本の戦争責任のメタファーであると考えられ、作者はイェーツの引用や作品の存在そのものを通して、その痛みとの向き合い方を示している
●多数の物語構造を吸収しているのは、物語がもつ伝播性・継承性の高さによるものであり、物語とその裏にある出来事を作者と同世代として描かれる佐伯さんを通じて、作者は次世代に継承させている
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